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伝えよう!! 看護職の震災体験

できることをする!!

 

こんにちは。

本日は

奥能登で開業されている助産師「奥野和美様」の「震災体験談」をご紹介します。

 

経緯 2024年1月1日の地震では

多くの方が被害に遭われました。

私たちはすぐにでも飛んで行きお手伝いしたい気持ちでおりました。

 

しかし、

私たちは何もできない。

そう、

私たちは何もできないのです。

 

とはいえ、何かしたい。

私たちナーシングドゥーラ®︎は考えました。

 

そうだ!!

 

地域で働く看護職が

震災時にどんな体験をし

何を感じて何をしていたか。 

それを広く社会に伝えることが

私たちができることだ!!

 

被災地での看護職が

何を考えどのような体験をされたのかを伺い

次に活かす。

これこそ、

ナーシングドゥーラ®︎として「できること」

まさに、地域看護です。

さあ、まずは伺ってみましょう。

 

 

 

できることをする!!

 

こんにちは。

 

輪島市で開業助産師をしています奥野和美です。

 

今回の交流会は

 

私の娘が、Hさん(代表理事渡邉の元お客様)と知り合いだった関係で声をかけてもらいました。

 

被災者の声を、被災者の助産師の声を一人でも多くの人に届けたい。

 

そして、被災直後の助産師が何をしたのかをお伝えし、

 

皆様の被災時の備えになればと交流会に参加しました。

 

さて、

2024年1月1日月曜日

 

明けましておめでとう と 言っていたその日の午後4時ごろ

 

一度目の震度5の地震。その10分後に今までに経験したことがない 震度7の地震。

 

ものすごく揺れました。

 

何?  

 

えっ?  

 

動けない!! 長い‼ 早くおさまって!

 

・・・・

 

柱につかまっているのがやっとでした。

 

・・・・

 

揺れがおさまってきたころ裸足で外へ出ました。

 

今までの景色とは一変していて、

 

ご近所の家は倒壊していたりブロック塀が倒れていたり

 

道路は電柱が傾いていたり、

 

亀裂が走り段差も出来ていました。

 

マンホールは地上に飛び出している状態。

 

乗り捨てられた車もありました。

 

・・・・

 

あっ!!!

 

津波が来るかもしれない。

 

・・・・

 

高台に避難しないと!!!!

 

と、高台めざして歩きました。

 

 

 

しばらくして津波は大丈夫そうだということで避難所へ向かいました。

 

家の近所に避難所はあったのですが

 

1キロ半ほど離れたところに89歳の実母を支えながら歩き

 

一緒に輪島市役所のほうに向かいました。

 

辺りはもう真っ暗。

 

 

 

 

着いてみてびっくり。

 

前代未聞の風景でした。

 

市役所の全フロアは廊下まで人でごった返し、

 

みんな右往左往していました。

 

 

何とか毛布をもらえて、ぼうっと座り込んでしまいました。

 

・・・・

 

 

そんな時、

 

勤務先のクリニックの院長から携帯に連絡が入りました。

 

 

 

「市役所にけがをされたかたや具合の悪い方はいませんか?」

 

 

その一言で私は看護職としてのスイッチが入り

 

私は被災者だけど看護師だ。

 

と夫と実母に言って全フロアを回りました。

 

 

 

市役所のフロアにおられた8ヶ月の妊婦さんに声をかけ

 

体調を確認して私と同じ部屋に移動していただきました。

 

 

その他いろいろな方がおられました。

 

4ヶ月、5ヶ月の赤ちゃんを連れたママたちには、

 

ケガしてない?

 

ミルクある?

 

おむつは?

 

と声をかけ、

 

火傷を負った子供さんもいたので

 

保冷剤やレジ袋に氷(市役所は電気が通っていた)を入れ冷やしました。

 

自分のことはさておき

 

「大丈夫ですか?」 「足らないものはないですか?」と、声かけして歩きました。

 

 

 

翌日別の避難所には600人の避難者がいて

 

その中に生後0か月、2ヶ月、8か月の赤ちゃんが!!!

 

 

さらに妊婦さんも避難していた。

 

皆、何も持たずに避難していた。

 

 

 

ミルク・オムツが無いとのことで、

 

なんとか小学校にもらいに行き届けました。

 

とは言え、十分な量では無い状況です。

 

 

 

また、別の避難所には生後三週間の赤ちゃんがいました。

 

 

さすがに心配なので、

 

私のいる市役所に来てもらいしばらく一緒にいました。

 

 

 

市役所は電気があるから少し安心だからです。

 

 

ともかくできることはやろう

と動きつづけていました。

 

 

 

支援物資が手に入るようになり

 

少しホッとしたのも束の間

 

 

 

三ヶ月を過ぎた頃に、

 

今度は私の疲れがどっと出ました。

 

 

・・・・

 

 

気づけば自宅はあの日のまま。

 

・・・・

 

 

割れた食器の片付けも掃除もしていない。

 

 

 

これを私は片付けられるのだろうかと、気力が低下し、不安感に襲われた。

 

そうこうしているうちに、

 

ますば、できることから、ゆっくりとと、

 

掃除を始めた。

 

とはいえ、

 

余震が来るたびドキッとする。

 

少し歩いては落ち込み、休んではまた歩くという時間がすぎていった。

 

 

そして、やっと。

 

と思ったのは六月位。

 

台所が使えるようになり、自衛隊のお風呂ではなく 

 

自宅のお風呂に入れるようになってからだ。

 

 

 

今振り返ると

 

私の歩く力になったのは

 

「茶道」のおかげかもしれない。

 

まずは、一服。

 

そんな思いで歩いていました。

 

 

 

 

私の話が皆様のお役に立ったら嬉しいです。

 

 

 

・・・・・

 

奥野和美様

 

あなたは、まさに、ナイチンゲール。

 

あの、

 

戦時下で活躍した

 

ナイチンゲール。

 

まさに、地域看護ですね。

 

すばらしい。

 

 

私たちも続きます。

 

震災時こそ「ナイチンゲール」の看護にかえり

 

寄り添い繋いでまいりましょうね!!

 

 

奧能登唯一の開業助産師

 

奥野和美さま

 

ありがとうございました。